昭和50年2月16日 朝の御理解



 御理解 第2節
 「先の世までも持って行かれ子孫までも残るものは神徳ぢゃ、神徳は信心すれば誰でも受ける事が出来る。みてると言う事がない。」
 
 みてると言う事がない、限りがない無尽蔵、そう言う意味ですね。無尽蔵のおかげが受けられる、限りなくとどまる事のないおかげ。それは神徳を受ける事によって、受けられる。神徳は先の世までも持って行かれ子孫にも残る。子孫にも残る程しのものであるから、先の世までも持って行かれると言う事は、勿論の事だと言う事が解る。やっぱりお徳だなあと、やっぱりお徳を残して行かれたな、と言う様な風に申します。ね。
 久留米の初代石橋松次郎先生は、それこそ素晴らしい御神徳を受けられたと、大徳者だと言われております。本当にそのやっぱ大徳を受けておられたと、思われる事は、例えば久留米の教会の御大祭、雨が降った事がない、もう降りよってもその時間になると降り止む。昨日おとといでしたか、先生の霊祭がありました。ずうとお湿りでした。だから合楽からもテントを幾張りも持って行った位でした。
 所が愈々霊祭が始まると言う段になったら、家から持って行っとったテントが役に立たない位に、スキッとお天気が上がった、お天気になった。皆んなが申しました。やっぱりお徳だなあと言う事です。親先生のお徳だなあと、その様にして残っておるのですから、持って行かれる事は勿論の事です。ね。ですからどうでも先の世まで持って行かれ子孫まで残る程の神徳を受けたいと思います。
 なら信心すれば誰でも受ける事が出来るとこう。信心すると言う事はどう言う事かと言うと、愈々神様を信ずる力が頂ける。信心する心が頂けれる。神徳を受ければ心配がない、とこう言われる。そこで不安があり心配があるとするならば、神徳をまだ受けてない証拠ですから、本気で修行させて頂こう。本気で改まろうと一心発起しますと、不思議です。今まで不安であった事、心配であった事が、スキッと致します。
 体験してごらんなさい。もう不安で不安で堪らない事がある、お願いしとるけど心配である、そう言う時に信心しよってこう言う事ぢゃいけん、と思いながらも、自分ではどうにも出来ない、改まりが出来ない。だから本当に心配な時にです、そう言う普通では出来ない、なら普通では改まる事が出来ない事を、改まらして貰いますからと、神様にお願いさせて貰います。また、改まると言う事でなくて、今まで出来なかった信心をさして貰うと言うても良いです。
 お日参りがしたいと思うても中々出来んと、朝参りしたいけど中々出来んと、そこに不安がある心配がある時にです、明日から朝参りさせて頂きますと、例えば思うただけで不安がなくなるです。それが積み重なるのですから、成程神徳を受ければ心配はないと言う程しの、おかげになって来る事は、間違いない事だと解らして貰わにゃいけません。だから心配があるたんびにお神徳を受けれる、言うならばチャンスだとも言われる訳です。信心、所謂まごころ。ね。
 昨日は富久信会でした。三十名余りの方達が集まって、まあ商売人ばっかりの集まりです。合楽で御神縁を頂いて、お商売している方達の集まり、昨日が二回目の集い、秋永嘉朗さんがこんな発表をしとりました。お夢を頂いた。その金庫を開ければ限りなくお金が沢山入っておる。誰でも開け得る事が出来なかったけれども、僕は合わせて開けた所が、それこそ中に沢山な、もうそれこそ風呂敷包みにして、担ろうて持って帰らんならん程しの、沢山のお金が入っとるお夢を頂いた、と言うのである。
 どんなに沢山のお金がすぐそこに傍にあると言うても、足許にあると言うてもです、その金庫を押し破る事は出来ません、人間の力で。けれども例えばなんですかね、ダイヤルを回して、そこにキチッと数字が合いますと、カチャッと開くでしょう。例えば自分の木を分くと申します。製材所は木を分くでしょう、木を分くとこう。自分の心を言うならば、分くとこう。自分改まりが出来ないと言う時でもです、本気で改まらせて頂こうと言う為には、自分の我力では改まる事は出来ません。
 改まろうと思うても中々改まれないから、神様に一心発起してお願いをする。そこで真心になれ、真心になれと言われるから、本気で真心でお取次ぎを願わして頂くと、今までどうにも出来なかった改まりが出来る。所謂まごころである、真心である。自分の知恵やら力ではどうにも開ける事出来ない、金庫があってもです、何番と何番を合せれば、所謂開く様にです、真心を以って成就しない事がないと言われる程しですから、真心を以ってその金庫が例えば。
 真心でしたけれども開かなかったと言うならまあだ真心が足りなかったと思うて、また一段とその真心を、絞って参ります所からです、それこそガチャットと音と同時に開ける事が出来る、中には限りないお金が入っている。今日の御理解はそこん所ですね、みてると言う事がない。みてると言う事がない程しのおかげを頂く為に所謂まず信心、信ずる心信ずる心を愈々強めて行かねばならない。
 それを例えば信心する、神徳を受ければ心配はないと言われるが、心配がある。あるならばです、その心配な心で神様へ打向う、そして今まで出来なかった改まりを、改まらして貰う。出来なかった信心をさして貰うと思うただけでも、不思議に心に安らぎが生まれて来る。神徳とはそう言う風にして、頂いて行くんだと言う事と、次の真心まごころである。それこそ真心一つで、おかげの頂けれる道である。
 真心と言う、言わばスイッチを押しただけで、人間の力ではどうにも出来ない大きな木であっても、製材に鋸があっても、人間の力でこうやって廻しただけでは、電源に触れる、言わばボタンがあるスイッチがあるのだ。だからそのスイッチを探す事が先なんだ。自分の力で回そうと言う事よりも、先ずはスイッチを探す事が先なんだ。そのスイッチを入れる所から、ゴッと音がする様にその鋸が回り出す。そこに木を持って行くから、製材が出来る様な道理なんです。
 ですから私共は本気で、真心を使わなければいけない。真心になる事の精進をしなければいけない。私は信心すれば誰でもお徳が、御神徳が受けられると言うのは、そう言う行き方。愈々神様を信じて疑わないと言う信心、そう言う疑いが起きて来る。不安が起きて来る心配が起きて来る。それはまあだ本当の意味に於いて、神を杖についとらん証拠であり、又は神様を信ずる力がないと言うのは、信心が足りんのだと思うて、なら今まで月に一回しか、お参りが出来なかった人がです。
 月次祭だけは必ずお参りをしますからと、心の中に誓って神様に願うと、不思議に心が、おかげを受けられると言った様な、安心が生まれて来る。信心しよってこんなこっちゃいかん、お教えを頂きよってこんなこっちゃいかん、と思いながら、仲々改まられない、ぐずぐずしておる心をです、何かそこに愈々心配事がある、お願いせんならん事がある時にです、改まらして頂きますからどうぞおかげ下さいとと言う、お願いをすると不思議にです、心が安らいで来るです。
 その安らぎがどうにも出来なかったおかげが、受けられる元になるのです。信心とはそう言う信心なんだ、そう言う信心をすれば、誰でも御神徳が受けられると言うのである。只参って居れば、拝んどればお徳が受けられると言う事ではない証拠に、沢山の御信者が居るです。金光様なら金光様の御信者の中に、けれども只お願いをするおかげを下さいと言う、ばっかりの信者ですから改まろうともしなければ、信ずる心を頂こうと精進もしない。真心になろうと言う心掛けも持たない。
 それで例えおかげを頂いて行くと言うから、それは何処迄もおかげだけであって、所謂みてる事のないおかげには継ながらない。そう言うおかげは必ずみてる。頂いた時だけである。みてる事がないと言う事は、無尽蔵限りない、そう言うおかげを頂く為には、神徳を受けなければならない。昨夜皆んなお商売人の方ばっかりですから、結局ソロバン高いお話しばっかり出る訳です。どうすりゃ儲かるかと言う事です。
 そりゃ他所より安く売って仕入れを安くして、うんと安く売って良い品物をです売るならまあ必ず売れるです。まあ必ず商売は繁盛するです。他所より安かもんしかも他所よりもよか品物ぢゃもん。本当にその決断が出来るなら信心がなかったちゃ、必ず繁昌するです。繁昌する店は必ずそう言う様な、素晴らしい行き方を商売の上に現しておるです。だからそれが例えば繁昌する、儲かるだけでは幸せになない。
 金光様の信心をして商売をさして貰うて、繁昌しなければならないが、その繁昌がです神様の繁昌にも繋がらなければならない。人間の幸福そのものに、繋がらねばならない。そう言う繁昌でなからなけねば繁昌ぢゃないのだ。と言う所に焦点を置いて、お道の信心を基にして商売をさして頂くならばと言う、お話しばっかりであります。兎に角、お客さんの懐どん当てにする商売人ぢゃつまらん。先ずは天地の親神様の懐の中に、手を突っ込める程しの、信心にならなければならない。
 神様の懐の中は限りがない。氏子の一握りは是だけだけれども、神の握りはどれだけあるやら解らんと言う。どれだけあるか解らんと言うおかげに、繋がって行くおかげを頂かなければならないと言うのである。今朝方から私その事を思わせて頂いとったら、あそこに久留米の文化センターの前からこう入って行く所に、あのうボーリング場があります。あの久留米の井上さん所にるんの入り道にです。そこにはねそのボーリング場のある前も広場と道とが一つになってるんです。
 何処が境やら判らんのですそこん所を御神眼に頂いた。そして私は本当に思わせて頂いた。是から是だけは俺がん物んと言うた様な事で線を引く様な事じゃなくてです、そこに国道なら国道、県道なら県道があっても、自分の所に線を引っ張らずに、一緒になったらそれはもう、自分の物であると同時にもう一緒ぢゃ、もう道と自分のものが一緒になっとる。親の物は子のもの子の物は親の物と言うと言う考え方が、先ず出来なければいけないと言う事なんです。
 所が親の物は子の物、子の物は子の物と言う様になるから、おかげにならんのです。人のもんな我がもん我がもんな我がもん、ちゅ訳です人の物が我が物なら、我が物も人の物と言う考え方にならせて頂く。一切が神様の言わば御物であると言う様な頂き方が出来る。そこにはもう境がない。限りない神様のおかげと一緒になる、繋がる事が出来ると言う事なのです。此処が言うなら我情我慾を取った姿で有ります。
 我情我慾を離れて見なければ、真の神徳は解らない。真の神徳に触れる事は出来ない。我情我慾が言うならそれを、言うならば我を取ると言う事である。自分の枠と言うものを取ると言う事である。自分で小さい枠を作って、その中に入ってしまう様な事では、もうつう一杯頂いた所でそれだけである。私のこの合楽の梅鉢の紋が、私の是は梅の紋にこう輪があった。神様がその輪を取れとこう仰った。だから以来私の紋は、この梅の輪がない。なんぼでも大きくなれると言うのである。
 輪があるから大きくなられんのである。それをなら我と言うても良いでしょう。我を取ると言う事です。私が俺がそれは私のと言った様なです、其ののとかがとか言うものが取れるのです。我を取るのです楽んなるです。成る程我が身は神徳の中にあるなあ、と実感出来る程しのものなんです。人の道と自分の道と二つあるなら中に畦道がこうあるならばです、その言うならば、境を取ってしまうのです。恐らくあの文化センターの前には、小さい横町ですから、横町の道があったんでしょう。
 所がそのボーリング場の方の、広場の所のその道の線をて言うのを取ってしまったから、その道もボーリング場の物の様に使ってある訳です。道を通る方の人も、ボーリング場の方の人も、だから便利ようする訳です。是から是は自分の物と、そこに例えば垣根をするとか煉瓦を積むとかしてご覧なさい、狭い事にしか使われない。私は限りない、みてる事のないおかげを頂くと言う事は、そう言う事だと思う。其処でです様々の場合に一変には出来んけれども、一分一厘づつ自分の我情をとり我慾をとる。
 まあ昨日笑い話、私は笑い話ぢゃない、本気で話したんですけど、皆が大笑いしたんですけれどもね、ご祈念中にね、お賽銭箱の中にジャラッジャラしよると音がしよるとほんに御祈念がしよかと私が言う。それが皆んなね只、十円二十円とカランと入れるのではなくて、一握りづつジャラッと入れる、ジャラジャラジャラ、ジャラジャラジャラとづっと言いよると、本当に御祈念がしよか。
 あのお賽銭と言うのはね、あれは天地に対する還元なんだ。お寺さんに行ってもお宮さんに行っても、だからお賽銭箱があるでしょう、あれは天満宮さんに参って、天満宮さんにお供えするのぢゃない、お寺さんに参ってお寺さんにお供えするのぢゃない、あれは天地に対する、言わば奉謝の心の現れなんだ。そのままが天地へ還元。もうお初穂しよるとぢゃから、お賽銭は上げんでよかろうちゅ事ぢゃでけん。お賽銭は入れんでん誰ん知らんあんまり。あヽあの人はお賽銭を上げんござると誰も見よらん。
 私の子供の時分に、当時三井郡の分限者と言われた久保山のおばあちゃんがお参りして見えるとです、もう本当に一握りづつ一銭銅貨やら五銭硬貨やら、色々混ざっとるです。それをジャラジャラジャラと入れよんなさる、善導寺の教会にお参りをすると。あヽあげんお供えがされる事なったらさぞよかろうち、子供の時から思いよった。天地に対する還元が出来よった。それに例えばお参りしてきても、お初穂しよるけんお賽銭はよかろうと言う事ではいけない。
 そこでです言うなら、お賽銭ちゃ小銭ときまっとりますがです、自分の財布の中にある、五枚の言うなら十円硬貨があるとするか、あヽ今日はおかげを頂いたと思うて、お供え出来るごとなってごらんなさい、絶対天地に対する還元ですから。いや今日は七枚あった、今日はまあだおかげを頂く、今日は一枚しかなかったと言う様にですね、合財の中に手を突っ込んで見て、ジャラジャラと言うごと入っている時こそ、おかげが頂けると言うような真を作る。
 是は久留米教会のお魚屋さんで、行商なさっておられる方が、もう昔は巻脚伴をはいてみたいに、ほれでこう合財と言う大きなその財布がある。そして中に手を突っ込んで一番先に手に掛かった奴をお供えする。その時分は五十銭硬貨と言うのがあった。だからもう五十銭硬貨が手に触れると、もう今日はおかげ頂くと言うてからこちらからポーンと投げてからもうお賽銭ぢゃった。今日はもう一銭銅貨しか手にあたった。
 あヽ今日はおかげを頂ききらん、今日はしっかり拝んどかにゃと。勿論下からですけれどもね、それで自分のおかげを占うと言う訳ぢゃないけれども、大きい金が手に触ったらおかげを受ける。確かにおかげを受けたと言う話を聞いた事があります。今日は私はそのおかげを頂くと言う意味ではなくてです、限りりない満てる事のないおかげを頂く為に、我情我慾を捨てねばならない。大きく一辺にさあ何万円もと言う様な、我慾は放しはきらんけどもです、せめて財布の中に入っておる、硬貨位な事ならば。
 放せん事はなかろう、稽古なんです。そしてなるほど十円のお賽銭よりも、五十円のお賽銭さして頂いた方が、有難いおかげが解って来たら、それをだんだん大きくして行ったら良い稽古なんです。私は満てる事のない様なおかげを頂く為にです、いわゆる我情我慾を捨てなければならん。私は月に何回しか参れないと言う人には必ず言うです。もう家からずうっと拝みよりますと言う人に、それから必ず電話かけてお願いをすると言う人に、ちゃんとお初穂を包んどいて。
 そしてお取次を頂けと私は言うのです。毎日拝みよらんなら合楽にお参りしよると拝みよると思うて、お賽銭十円でも良いから積み上げときなさい。そいて次に参って来た時にお供えしなさいと私が言うんです。只電話でお願いすりゃね、お初穂もいらんと言った考え方ではおかげにならんちゅんです。言うならばです自分の我慾を捨てる稽古なんだ。お初穂とかお供えとかと言う物は。お金は人間にとって一番、必要だとさえ言う人がある。位いにお金は大事なんです。
 お金は幾らでも余計に身に付けときたいもんだ。それを外そうと言うのだからやはり難しい、けども難しいからと言うて、放っておいては我情我慾が募るばかりである。そこで我情我慾を放す稽古です。色々なに工夫さして頂いて、まあお賽銭からでも一つ外して行く稽古をさして頂いて、余計外せば余計外す程の、言うならば我慾を捨てた事になるからです。満てる事のない程しの、おかげに継ながって行く道を、間違いなく歩いておると言う事になるのです。
その場限りのおかげぢゃつまらん、満てる事のないおかげ、それはあの世にも持って行かれ子孫まで残ると言う程しのものである。そう言う神徳は、信心すれば誰でも受ける事が出来ると言うけれども、そう教えておられるけれども、信心を間違えて何十年したって頂けるものではない。信心とは先ず神様を信ずる心を作る事。先ず真心になる事、そう言う信心を目指さして頂いて、又は我情我慾を取り外す稽古をさして頂いて行く所に、誰でも神徳を受けられる事になる。
 その御神徳がです、限りないおかげに継ながって行くと言うのである。人間の懐を当てにしたのではなくて、神様の懐を当てにする信心である。神様の懐に手を突っ込む信心である。それには自分の物も神様の物もないと言う程しの考え方を、一切を神様の御物だと言う頂き方が本当に出来たら、それこそ親の物は子の物子の物は親の物、と言う程しのおかげ、親神様の物が自分の物となった時です、初めて限りないと言うおかげに継ながる事が出来るんですね。
   どうぞ。